|
日 程
|
2005年1月31日~2月4日 |
|
視察地
|
プーケット県、パンガー県、ラノーン県 |
| |
|
|
| 1月31日 プーケット |
| |
|
|
| プーケットの飛行場に着き、到着ロビーを出ると、津波発生後、行方不明となっている人たちの顔写真、情報を求める紙、また各国の連絡先などが至る所に貼られていた。我々一向の車は飛行場からプーケットの街の中心へと向かった。市街に入るとバンコクなどでおなじみの大型スーパーマーケットや、ショッピングモールが乱立していて、津波発生後の面影は全くない。その後、観光客で賑わうパトンビーチへと行く先を変える。市街から山を越え、遠くに海が見えてきた。その頃からだろうか、やけに更地や工事現場を目にするようになる。そして、パトンビーチに入ると、ビーチ沿いに並んでいるレストラン、ホテル、お土産物屋はほとんど原型を留めていない。中には、少し改修して使える一部分のみで、既に開店しているところもあった。 |
|
| |
|
|
|
我々の宿泊したホテルはビーチ沿いから1本外れた通りにあったが、1階部分は水が入ってくる被害にあったそうだ。しかし、すでに改装も済み、ホテル営業を再開していた。我々も何も問題なく、快適な宿泊ができた。チェックイン後、パトンビーチ周辺の探索へと向かった。海岸を歩いていると、制服をきた子どもたちや中には、外国人観光客が砂浜に穴を掘っている。子ども達に近づいて様子を見ていると、各々が掘った小さな穴にろうそくを一本ずつ立てていた。 |
| |
|
|
プーケットの行政機関OrBorJorによるイベント「ライトアップ パトン」。準備されたキャンドルは10万本だそうだ。夜にはこのろうそくが灯るというので、また戻ってこよう。我々はそのまま、この生徒たちの学校-カリン小学校を訪ねてみることにした。地元の人たちに場所を聞くと「あそこだよ」と丘の上の方向を指し、とても近そうなことを言う。しかし、歩いても歩いても辿り着かない。階段を上り、工事現場の中を通り、上り坂に差し掛かった時、ついにギブアップ。乗り合いタクシー、ソンテウを捕まえた。ふぅ、一安心。車に乗ったら、あっという間に学校についた。すでに夕方だったこと、また先生方は子ども達とともに海岸に出てしまっていたこともあり、学校内は校庭でサッカーをしている数名のみだった。津波の被害は明らかだったが、すでに校舎建設の予定ももあり、復興も早そうだ。校舎の壁には支援者のリストなどが書き連ねてあった。
夜は、地元の人の案内でプーケット内を車で回った。海岸は夕方、子ども達が一生懸命立てた無数のろうそくがすべて灯った。我々も犠牲者のご冥福を祈って、ろうそくを灯した。 |
|
| |
|
|
| その後、プーケット島を車で1周した。かつては、観光客で賑わっていた様子が伺える。しかし、津波発生から1ヶ月、いまだプーケットのビーチリゾートに観光客は戻ってきていない。どこのバーやレストラン、マッサージ店、そしておみやげ物屋も店員が暇そうにしている。プーケットに関して言えば、この島へ遊びに来ることが、最大の復興支援と言えるのではないだろうか。 |
| |
|
|
| 2月1日 パンガー |
| |
|
|
| 今日は津波の被害がタイで最も大きかったと言われる、パンガーへ向かった。プーケットを抜けてパンガー県に入ると、メインロードの両脇は、リゾートホテルの跡が所々見られる以外は、ほとんどが更地になっていたり、流されたものが山積みにされていたりした。中には、流されたモーターバイクの店もあった。しばらく、車を走らせると一人の外国人男性がヒッチハイクをしている。我々は彼を乗せてあげることにして車を止めると、その青年は慣れた様子で車に乗り込んできた。車内では、まずはご挨拶。彼は、上海の大学で講師をしているアメリカ人。今はこの津波災害のため、バン・ナムケン学校でボランティアをしているという。あと数日で一度上海に戻らないといけないが、これからもこのプロジェクトのため、ちょくちょく来るそうだ。現地の人に“もう必要ない”と言われるまで、協力していくつもりだと話してくれた。彼は、毎日ヒッチハイクで学校まで通っている。ここには、たくさんの国からボランティアが来ていて、毎日英語を教えたり、レクレーション活動を行っているそうだ。 |
| |
|
|
|
|
| |
|
|
| 彼を学校まで送り届けると我々はまず、津波災害センターがあるタクアパーのお寺に向かった。このお寺は遺体の収容場所ともなっている。お寺の周りを歩くと、その遺体が放つ異臭が一体を覆っている。ボードには被害者や未だ行方の分からない人たちの写真が貼られている。 |
|
| |
|
|
| その後、多くの人々が生活している避難所に向かった。そこでは、仮設住宅の他、世界各国のNGOや国連など支援団体が託児所や図書館をなどのテントを設け、子ども達への支援活動を行っている。また、歯医者やマッサージなどのサービスや物資による支援も行き届いていた。ここで、マスコミなどがパンガー県の被害を多く取り上げ、支援がパンガーで止まってしまうため、お隣のラノーンにはまだまだ支援を必要としている学校が多数あるという情報を得た。明日、我々はラノーンへ向かうことに決めた。 |
|
|
|
次に向かったのは、やはり被害が大きかったことで知られる、カオラック。海も何も見えないところに突然、大きな船が現れる。津波がこの船をここまで運んだと聞き、唖然とする。また、周辺は漁業を営む人たちの集落だったそうだが、今は影も形ものこっていない。港へも足を運んだが、多くの船が壊れているほか、コンクリートにもひびが入っていたり、崩壊していた。漁業で生計を立てている人々の困難さが痛いほど分かった |
| |
|
|
| 2月2日 ラノーン |
| |
|
|
|
昨日、得た情報をもとに今日はラノーンにある学校を回る。まずは、プーカオトン小学校へ。しかし、広い校庭とその上に建てられている校舎。どこにも、津波の被害は見当たらない。先生の話によると、津波そのものはこの学校まで届かなかったそうだ。しかし、親を亡くしたした生徒が数名いるとのことだ。通常通り、授業が行われており、生徒たちも皆、元気そうだ。私のカメラを見つけると、皆一斉にポーズを取りはじめる。
|
|
| |
|
|
|
|
次に向かったのはお寺の中に保育園がある、サマーキタム。ここも海からは離れていることもあり、保育園、お寺ともに津波の被害は見当たらない。しかし、このお寺自体が避難所となったいた。仮設住宅も少し建てられていたが、多くはテントを張り、そこで生活している。このお寺の僧侶にお話を伺ったところ、ここに非難している人たちの多くは、島で暮らしていたそうだ。彼らの家の多くは津波の被害にあわず、津波発生前とほぼ同じ状態である。しかし、彼らは生まれて初めて知る、津波の恐怖から島暮らしができなくなっている。そのため、このお寺でテント生活をしているそうだ。こうした、心のケアーのニーズが、今後、一層、高まってくるであろう。 |
| |
|
|
| 大通りをひたすら進んだ後、小さな脇道に入り、さらに坂を上り下り、くねくねした道を突き進むと村らしきものがぽつぽつ現れた。今まで見てきた場所とは違い、外国人の姿もほとんど見られない。その小道の突き当たりは、海岸となっている。おかしい。地図では、ここに一つの小学校があるはずなのに・・・。我々は道を間違えたのだろうか。戻ろう。とUターンした時、一人が「あれ?あそこのコンクリートは一体何?」「バレーボールコートだったのでは?」と、言い出した。そこで、再び、車を止めてじっくり見てみることにした。国旗もぽつんとたっている。やはり、ここは小学校があった所だ。ということは、津波によって校舎が丸ごと流されてしまった!それは、衝撃的事実だった。 |
 |
さっき、通ってきた村に戻り、村民に話を聞こう。村に到着すると、今は、その村の中に仮校舎があると教えてもらった。早速、その仮校舎へ足を運んでみたら、子どもが数名、寄付されたのであろう遊戯具で遊んでいた。先生と話すことができ、詳しい事情を聞いてみた。やはり、我々が先ほど見てきた更地は元々校舎があった場所だそうだ。津波によって、24名中8名の生徒、3人中1人の先生を亡くしたことも分かった。-ということは、さっき見た子ども達がこの学校の全校生徒ということになる。メディアで取り上げられているような、大きな学校でも村でもない。なかなか、この小さな学校まで支援が行き届くのは大変なんだろう。何かできることはないだろうか。我々一行、全員がそう感じた |
| |
|
|
|
|
| |
|
|
| 帰路、ラノーンを抜けてパンガーに入ってから、昨日、訪問しなかったが、やはり被害が大きいと言われている学校を訪問することにした。タップラム小学校に到着すると、先生が我々を車まで出迎えてくれる。「慣れた様子だ」というのが第一印象だ。その後、流暢に津波の被害状況について説明を始める。私は、校舎を一つ一つ周ってみることにした。全壊ではなく、こういうのを半壊というのだろうか?教室も壁が壊れてぶら下がっていたり、窓やドアがひどく破損している。先ほどのタレノー小学校とは違って、一部、校舎が残っている分、被害を受けた印象は強い。だからであろうか。やはり、支援も多数行き届いてる。我々が訪問したこの日も、いくつかの団体が支援物資を届けに来ていた。校舎も建て始められていた。王室からの支援もあるそうだ。先生は、訪問者の対応で休みがないと話していた。 |
|
| |
|
|
| 2月3日 プーケット |
| |
|
|
| 午後の便で戻るため、今日は午前しか時間がない。プーケットの学校は初日に少し覗いただけなので、最後にもう一つ被害が大きいと言われているカマラ小学校を訪問してから帰ることにした。この学校は、一時、高級ホテルが開放した部屋を臨時教室として使用したことで報道されたこともある。学校に到着すると、驚くほど人がいる。多くの西洋人が車で何かの支援物資を運んできている。また、当日は政府による奨学金支援の式典が行われていたため、通常以上の人であったようだ。先生方も忙しそうに動いていて、話をできる状況ではない。学校の周辺はどこもすごい被害を受けている。家やホテルがあったと聞いたが、ほとんどその姿はみあたらない。しかし、このカマラ小学校は、損害の受けた1階部分の修復も既に終了している。場所柄、観光客の目にもつきやすいのだろう。一つの教室には支援物資が積み上げられていた |
|
| |
|
|
| 今回、津波調査に派遣されるにあたり、プーケット周辺について調べてみたら、パトンビーチには、スラムがあり、そこに子ども達がたくさんいると分かった。そこで、最後に地元の人に連れて行ってくれるようお願いした。しかし、車で到着すると、スラムがあったと言われる場所は囲いがされ、工事が始まっていた。新しくホテルが建つという。「もうパトンにはスラムはない」と、その人は言った。しかし、たとえそこのスラムが撤去されたとしても、少なくてもそこ住んでいた人たちがいて、彼らは他のどこかで暮らしていかなければいけない。本当にそこが「スラム」だった場所なのか?だとしたら、そこの人々は今どこにいるのだろうか?津波による被害は受けなかったのだろうか?色々な疑問を抱き、飛行場へと向かった。 |
| |
|
|
 |
今回、プーケット、パンガー、ラノーンの被災状況を小学校を中心に見て回った。どこの学校も被害は想像を絶するほど大きかったのは、言うまでもない。NGOや国連といった支援団体、企業、そして個人が世界各地からタイの復興のために協力をしている。しかし、残念ながらその支援には偏りが見られた。ある場所には報道機関が常駐し支援物資で溢れかえっている。一方では、なかなか人々の目にも留まらず、先の見えない未来と津波が襲った現実に、途方に暮れる人々。全ての人に何かをすることはできないだろう。しかし、見逃されがちなところに手を差しのべ、隙間を埋めていくような支援ができないだろうかと感じた。1人でも多くの子どもや人々に笑顔が戻るように。そして、この美しい海が再び世界中の人々を魅了する日が一日も早く訪れることを祈っている。 |
| |
|
|
| *今回の調査では、この美しい海に触れることもゆっくり眺める時間もなかったな~・・・ (完) |
| |
|

海岸からはかなり離れている場所まで。 |

一体ここは何があったのか? 見ただけではまるでわからないほどに破壊された校舎 |

村のほとんどが冠水。数日後も水が引かない所が多数。 |